スパークする瞬間 Where “Spark” Leads To


●エリザベス・ペイトン氏作「Kundry(Waltraud Meier)」
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私は肖像画に興味はない。
だが、現在原美術館で開催中のエリザベス・ペイトン氏の回廊展で展示されていた肖像画の数々には釘付けになった。
肖像画というのは、キャンバスに油絵の具でたっぷりと、幾重にも色と筆を重ね、重厚感で押しつぶされる作品、という固定概念が私の中にあった。だが、彼女の作品はいわゆる肖像画というよりも、人物の絵、というライトな印象を受けた。
厳選した筆使いだからか、そこに描かれている人が、特定の誰かをイメージさせることなく、自分自身の投影として見え、不思議な気持ちにさせられた。特に、滲みをふんだんに使用した水彩絵の具でさぁ〜っと描かれている(ように見受けられる)2016年の作「Kundry(Waltraud Meier)」の表情は、泣き疲れているように見え、また、ハッと閃いた瞬間のようにも感じられ、見たくないものを見てしまったバツの悪さを感じているようにも見えた。そして、それはまさに、私そのものだ、と感じたのだ。


●作家と作品と鑑賞者の中に産まれる「スパーク」
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絵というのはどこまでいっても、自分の内面を映し出すツールになる。それは絵を描いている作家本人においてもそうだし、絵を鑑賞する者にとっても、だ。つまり、作家は創作している対象の中に、意識的にせよ、無意識的にせよ、自分の内面を吐き出しているのだということ。と同時に、鑑賞者は、その創作物から、作者本人のエネルギーや感情に似た何か、を受け取っているのだ。
だから、その双方の間に何かしらの共通項が有る時に、「スパークする」。作家の分身である作品と、鑑賞者の間に交流が生まれるのだ。
あなたにも特定の絵から離れられず、なぜか立ち止まって食い入るように見てしまう、という絵に出会ったことありませんか。(言うまでもないことだが、平面作品に限らず、立体作品など、クリエイターが創ったモノにも当てはまる。)
「スパークする」時というのは、何も良い感情の時だけに限らない。好きとか嫌いとか超えたところで、ただただ衝撃を受ける、ということも、大いにある。例えばムンクの「叫び」。あの作品に対して、多くの人は何かしら感情を掻き立てらせるのではないだろうか。その時、自身の中にある叫びと共鳴しているのではないだろうか。それは、叫びたくなるほどの衝動が自分の内側にちゃっかりあることを認めざるおえなくなる感覚なのかもしれない。
●いたるところで「スパーク」は起きている
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これを日常生活全般に広げてみよう。
絵を観ている時だけでなく、映画鑑賞している時、友達と話をしている時、会社で仕事をしている時、も、私たちは、特定の人やモノに対して、共感と反感を繰り返している。「ウマが合う」と感じる友人に対しては、話をしている中で「スパークする」瞬間が多々ある。一目惚れをした洋服、というのも良い意味でのスパークの種類に入る。
逆に大嫌いな上司と会議で話をする際に、「は?なんでこんなことを言うの?!」などと言った、逆の意味でのスパークがあるかもしれない。外出時、傘を持たない時に突然雨が降って来たら、イラっとしたスパークをしていることも。
このように「スパークする」時には、何かしら、自分の感情が揺れ動いている。そのちょっとした心の揺れに敏感になることで、何が自分を突き動かしているのか、を理解するツールになるのだ。
外の世界というのは、私たちにいつも、メッセージを届けてくれている。スパークというカタチを通して、自分自身のことをよりよく理解するチャンスが与えられているのだ。芸術作品も自分の周りにいる人もモノも、日常の些細な出来事も、全てメッセージ。「なんでこの出来事にスパークしたのだろうか?」と自問自答をすることで、自分の中にある価値観に気づいたり、見過ごしていた感情を思い出したりするかもしれない。
●「スパーク」の意味を知ることの意義
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エリザベス・ペイトン氏の話に戻るが、画集の中で彼女はこう語っている。「肖像画の制作は単にその人を描くことではなく、時間、つまり描かれた人物(そして私)が生きている時間を描いてもいるのだと。…(中略)… 肖像画とは本質的に、私が生きている時間や感情を象る手段なのだということに気づきました。」と。
「Kundry(Waltraud Meier)」の作品を通して、私は自分の中にある、見たくない自分を見てしまった感覚に陥った。と同時に、そこから目を離せない。(画集に掲載されていた作品を写真にして携帯の待ち受け画面にしてしまったぐらいに。)
「なんでこの作品にスパークしているのだろうか?」という問いを通して、ほんの少し、私は私のことを今より分かっていきたいと思う。
あなたにはありますか、スパークさせられる絵は?スパークさせられる映画は?スパークさせられる人物は?
それは一体、どんな感情や価値観とつながっているのでしょう?
それらが、今の自分のキャパシティーを広く深く押し広げる鍵となるかもしれません。
追伸:
今回初めて原美術館に行ったのだが、とてもレトロな電話ボックスが設置されていた。
これを見て、大切な誰かに電話をしたくなった。携帯電話からでは、なく。

そして、美術館の外に設置されているというだけで、これも芸術作品に感じられたのでした。
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2017.4.4 Tuesday(*KAYO-BI)
Kayo Nomura
*KAYO-BI:毎週火曜日にブログを更新しています。

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