心と心の会話 Heart to Heart Communication

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とっても当たり前のことだけども、
私たち人間は、言葉を通して、人と意思疎通を図っている。
今こうして言葉を綴っているように。
でも、度々、思う。
言葉ってなんて不便なんだろう、と。
言葉があるから、時として、誤解が生まれる。
言葉があるから、私たちは悲しくなったり、苦しくなったりする。
他人の心を100パーセント理解できないのと同じように
言葉だけでは、相手を心底理解することなど、不可能だと思う。

 
●心と心のコミュニケーション
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幼稚園の終わり頃に、父のお仕事の関係でアメリカに引っ越した。
まわりの幼稚園児は、当たり前だが、皆英語を話していて、私は無論、一言も話せなかった。
そして、また、引っ込み事案だったので、
積極的に人と関わり合うことなんて、到底できなかった。
だから、先生の言っていることなんてわからないし、
まわりの言っていることを自分から知ろうと思わなかった。
だから一人で、空想の世界の中に住んでいた。
 
そんなある日、韓国人の子が転入してきた。
私と同じように英語を話せなかった。
だからか、私と彼女は必然的に一緒につるむようになった。
彼女は日本語をしゃべれないし、私も韓国語を理解できなかったけども。
 
でも、不思議なことに、その子とは意思疎通ができていたと記憶している。
アイコンタクトだったり、ジェスチャーだったり、顔の表情だったり。
そういう非言語の中から、私たちは自然と、会話をしていたのだと思う。
その頃の思い出を勝手に「心と心の会話」と名付けている。(そのまんまやけども)
いつしか、英語が不自由なく喋れるようになってからは、そのような経験をしていたことすら忘れていた。
 
●言葉に頼りすぎる弊害
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先日、あるきっかけがあり、「心と心の会話」を思い出したときに、
いかに、大人になった今、言葉に頼りきっていることを痛感したのだった。
そもそも言葉って何のためにあるのだろうか?
本当は、お互いを理解するために、あるのではないだろうか?
なのに、「あの人がこう言ったから、◯◯したのに」とか
「なんであの時、ああ言っていたのに、その真逆のことをしているの?」と、
勝手に誤解して、勝手に怒ったり落胆したりしていないだろうか。
要は、言葉に頼りすぎていないだろうか。
 
言葉がなければ、誤解は生まれない。
言葉がなければ、苦しむこともない。
 
でも、言葉があるからこそ、私たちは簡単に意思疎通ができる。
そして、言葉を通して、その奥に秘めた真意を汲み取ろうをすることも可能だ。
かつての私が「心と心の会話」をしていたように。
 
誰もが、それをできる能力を持っている。
本当に、目の前の人を理解しようと思うのであれば。
 
●感動の意味
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私は、絵を描いている。
絵を描くことを通して表現したい世界があるからだ。
それは、うまく言葉にできることもあれば、言葉が意味をなさないこともある。
でも、言葉であろうとなかろうと、私たち一人ひとりの中に、
表現したい何かが、あると、私は確信している。
そして、その奥底に眠る想いが共鳴した時に、
私たちは、心が震えるのではなかろうか。
それを「感動」と呼ぶのではないのだろうか。
 
目の前に起きる全ての出来事、目に見える世界は、心が動くもので溢れている。
それを、見過ごさずに、生きていきたい。
そして、キャッチした心の震えを、線と色で、紙に落としていきたい。
そして、願わくば、あなたと、
それを通して心と心の会話、が、
できたとするながら、嬉しいのです。
 

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2016.12.20 Tuesday(*KAYO-BI)
Kayo Nomura
*KAYO-BI:毎週火曜日にブログを更新しています。

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