「タクシーに乗った男」からの教訓と、絵の役割について What is Art?
個展が終わった時に、ある物語を思い出した。
村上春樹の短編小説「回転木馬のデッド・ヒート」。
この小説は、完全なるフィクションでもなければ
ノンフィクションでもない、その狭間に位置する物語。
その中に出てくる「タクシーに乗った男」は、村上春樹がペンネームを使って
小さな美術誌のために画廊探訪のような仕事をしていた時に出会った、
ある画廊のオーナーがニューヨークで出会った作品についての話。
そのオーナーはもともと画家を志してニューヨークに行ったものの、
自分の才能に見切りをつけて絵のバイヤーの仕事をするようになったそう。
無名画家や若手画家のアトリエをまわって良さそうなものをみつけ、
それを買い付けて東京の画商に送る、というお仕事を。
「これまでに巡り合った中でいちばん衝撃的だったのはどんな絵ですか?」
という問いに対しての回答が、「タクシーに乗った男」というタイトルの絵だった。
だが、それは芸術的感動という衝撃とは少し趣の違う意味合いで。
絵そのものは素人芸に毛が生えた程度のもので、悪くもないが良くもなかった。
ただし、その中に描かれていた若い男に、オーナーは惹かれたのだという。
その男は、頬骨が張り出しており、顎の肉はそげており、暗闇を見ていた。
オーナーは、ある時期、毎日その絵を見続けたという。
そして絵の中にいる彼を見る度に、自分が失ったものの大きさを思い知らされた、と。
さらに、タクシーという平凡な密室空間に永遠に閉じこめられている自分を認識した、と。
●絵の意味と役割
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そこからも物語は展開していくのだが、それは、小説に譲るとして、
私がここで言いたいことはただ一つ。
絵には正解なんてないし、良し悪しをつけることなんて、
本当の意味では、できないものだということ。
先のオーナーも、「タクシーに乗った男」自体は凡庸な作品で
人目を惹くものものではないと語っていたが、それでも、
自分を捉えて離さなかった。それだけでなく、自分の人生の一部としてまで感じて、
生活に溶け込んでいき、自分を再認識するきっかけとなった、と。
絵に、仮に役割があるとしたら、
それは、単に「美しい」とか「綺麗だね」と
月並みな感想を抱かせるだけではなく、
また「上手だ下手だ」と評価されるものでもなく、
ただただ、胸を打つものであることだと思う。
胸を打つ絵は人によって違い、同じ絵のなかでもポイントも違う。
それはそれで良い。その人の今、そして人生のタイミングで変わっていくものだから。
●絵とは、本来、どういうものなのか
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今回の個展を通して、思いの外多くの方が来てくださり、
お話をするなかで、絵の持つ本来の役割について考えを巡らせている。
そのなかの一環に、「タクシーに乗った男」と画廊オーナーの話が、
紐付いているようにみえてならない。
何度も伝えていることだが、私は本格的な美術教育を受けずして、
制作を始め、個展活動をするように至った。
だから、美大卒の方や専門的に教育を受けた方に比べると、
技術的に劣る。それは間違いようのない事実だと認識している。
だからといって、上手い絵が心を打つものでもないことも知っている。
結局は、身も蓋もない言い方になってしまうが、
描き手次第なのではないか、と思う。
だからこそ、私は、描き続けていきたい。
言い訳をすることもなく。
そして、自分自身の殻を壊し続けていきたいし、
挑戦する人生を続けていきたい。
そんなことをひたひたと感じた展示だった。
足を運んでくださった、皆様、心よりお礼を申し上げます。
ありがとうございました。
野村佳代
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2017.2.14 Tuesday(*KAYO-BI)
Kayo Nomura
*KAYO-BI:毎週火曜日にブログを更新しています。
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