村上春樹の物語と、制作について Onto Creative Process
この春から村上春樹の小説を読み直している。
今日まで読んだのは以下の通り:
『スプートニクの恋人』
『アフターダーク』
『1Q84』
『騎士団長殺し』
『海辺のカフカ』
『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』
『ねじまき鳥クロニクル』
(村上春樹について一言:
彼の小説を初めて読んだのが大学生の頃『ノルウェイの森』だったが、最後まで読んだものの、意味がよくわからなくて、その後、彼の小説を手に取ることはなかった。
ところが、20代後半に差し掛かった頃、仕事で苦しんでいた時に、今や小説家として活躍している同僚が「村上春樹の小説を絶対読んだ方がいい」と強く勧められたのをきっかけに、試しに『ねじまき鳥クロニクル』を読んだら、するすると読めてしまい、しかもそれがまるで乾いた大地に雨が吸い込んでいくように、心に染み渡るような感覚を得た。
それ以降、彼の本を片っ端から読破している。どの作品も不定期で読み直しているのはもちろん、英訳されたものも読んでいる。)
村上春樹の小説は好き嫌いが分かれるし、賛否両論あるけども(現に、私も大学生の頃読んだ時には意味不明だと感じたわけだし/それも最も彼の作品の中でリアリズムを追求した作品だったにも関わらず)、今や、私がもっとも読んでいる著者の一人であり、再読率を考えたら間違いなくダントツだ。そういう観点から、最も影響を受けているだろう作家のひとりだ。
ちょうど今、読んでいるのは彼の小説ではなく、インタビュー集
『夢を見るために、毎朝僕は目覚めるのです』
13年間に渡る、海外を含めたインタビューが掲載されており、読み応えたっぷりな内容だ。(ちなみにこのインタビュー集は、シンガポールで働いていた時にバイブルのように持ち歩き、隙あらば読んでいた。異国の地にいる時に彼の諸物をより一層心のどこかが求めているように感じられる。)
「彼の小説の何にそれほどまで惹かれるのか?」「再読したくなるのは何故か?」そして、「学生の頃は拒否反応を示したのだろうか?」という問いに関する答えの輪郭が上記諸物には書かれている。
試しに、本書のタイトルとなっている箇所を、以下引用する(p.164-165)
ーあなたの作品において問題になっているのはいつも、境界線の向こう側、つまり身体と心、生と死、現実と別次元(パラレルワールド、無意識など)の境界線の向こう側に行くことです。ある種の動物、たとえば『羊をめぐる冒険』と『ダンス・ダンス・ダンス』の羊男や、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の一角獣は、こうした境界線を超えることを可能にしてくれています。こうした動物はどこからやって来たのでしょうか?
村上:イメージをつかって、お答えしましょうか。仮に、人間が家だとします。一階はあなたが生活し、料理し、食事をし、家族と一緒にテレビを見る場所です。二階にはあなたの寝室がある。そこで読書したり、眠ったりします。そして、地下階があります。それはもっと奥まった空間で、ものをストックしたり、遊具をおいたりしてある場所です。ところがこの地下階のなかには、隠れた別の空間もある。それは入るのが難しい場所です。というのも、簡単には見つからない秘密の扉から入っていくことができるでしょう。(中略)そこでは、奇妙なものをたくさん目撃できます。(中略)それはちょうど夢のようなものです。無意識の世界の形状のようなな。けれどもいつか、あなたは現実世界に帰らなければならない。そのときは、部屋から出て、扉を閉じ、階段を昇るんです。
本を書くとき僕は、こんな感じの暗くて不思議な空間の中にいて、奇妙な無数の要素を眼にするんです。それは象徴的だとか、形而上学的だとか、メタファーだとか、シュールリアスティックだとか、言われるんでしょうね。でも僕にとって、この空間の中にいるのはとても自然なことで、それらの物事はむしろ自然なものとして目に映ります。こうした要素が物語を書くのを助けてくれます。作家にとって書くことは、ちょうど、目覚めながら夢見るようなものです。
ー
日常では色々なことが起こる。
それは、それぞれ固有のものである。
そして、その人の視点を通しているので、唯一無二な体験だ。
でも、村上春樹の言葉を借りると一旦”地下”に降りたら、
それは無意識とも繋がっている。
そして、その無意識空間というのは、
固有のものというよりも共通ものではないだろうか。
人を超えて、世代を超えて、国家を超えて。
私が度々伝えている「多様なものと、普遍なもの」。
その行き来をしているのが村上春樹の小説なのではないか。
そして、だからこそ、多くの人は、それを求めるのではないか。
その一方で、昔の私のように毛嫌いしたりよくわからないという感覚があるのは、
個人としての経験が不足していたからか、
もしくはエゴが育ち切っていなかったからなのではないか、と想像する。
そしてまた、こうも思う。
良い物語/小説をくぐり抜けた後に
私たちは、読む前とは違う人間になっているのだ、と。
世界の捉え方が少し変わっていたり
ものの見え方がよりクリアになっていたり
自分のことを前より理解できる感覚が芽生えていたり
するのではにか、と。
さらにこうも思う。
良い小説同様、良い作品というのは
上記と同じことが内面で起こりうるのではないか、と。
だからこそ、私の基本的な姿勢としては
「人間理解」が土台にある。
その上で、自分との対話、他人との対話、世界との対話
から作品を制作していくのだ、と。
技術や手法も必要かもしれないけども、
もっとも大事なのは、当たり前だけども
その人の在り方そのもの。
それをどう磨いていくか、
そこに私は重きを置いていきたい。
一生涯取り組んでいく課題です。
2021.7.6
Kayo Nomura