生き方の方向を指し示す言葉 Life Purpose
お盆休み中に本棚の掃除をした。
そこに、まだ私が絵描きになる前の時期に書いたノートブックが出てきた。ちょうど会社員をやめ、どのように生きたいのか模索していた時期だ。30歳になった頃のことだ。
過去の自分が好きだったこと、何に興味関心を持っていたか、どんな信念・価値観をもとに生きていたか、忘れられない思い出等の項目を立て、小さな字で事細かに書き綴ってあった。過去を遡って自分がこれから何をしていきたいのか導き出すのに必死だった様子が窺える。びっしりと書かれたノートの最後に、大きめの文字でこう書いてあった。
「競争の世界から、共存の世界へ。
調和を通して平和を実現したい。
ALL AS ONE.」と。
なんでこんな話を持ち出しているか、理由は2つある。
一つに私たちは、知らず知らずのうちにすぐに比較をしてしまう生き物だな、と思ったことから始まる。
例えば、現代だとSNSを発端にイイネの数やフォロワー数を通して比較し、競い合うタネになる。
私自身これまで周りの人と自分を比較しては落ち込み、「もっとこうならないと」と躍起になっていた時期が長い。「自分はなんてダメなんだろう」と思うことと、頑張るための原動力がセットになっていた。
当時、いつも疲れていた。常に頑張らないといけない状況を勝手に作り出し、そのゴールのテープを切っても、次の比較対象が出てきて、エンドレスに戦っているような気がしたものだ。
先ほどのノートの最後に書いた「競争から共存の世界へ」には、比較から始まる競争に終止符を打ちたいと心底思ったことから出てきた言葉だった。
象さんとキリンさんは同じ動物だけども、比較などしない。
どっちの方が鼻が長かろうが、首が長かろうが、関係ない。
だって、本来比較しようがない、異なる生き物だから。
同じように、人間同士も、それぞれ個性的でユニークな存在だ。本当は、比較なんてできやしない。また、したところで、なんと滑稽で無意味なことか。
2つ目。
私たちは職業選択をする際に「何をしたいか」を基準で選ぶことがあるが、各職業の根っこを見ていくことで、より普遍的な「どう生きたいか」に辿りつくのではないだろうか、と思ったのだ。
特に、コロナ禍の状況で、世界の価値観が変容し、先行きが見えづらくなっていくことで自らの生き方について、考えを巡らすことが増えているのではないか、と思う。
私の場合、30歳の頃具体的に「何をしたいか」が分からずとも、どう生きたいかに焦点を当てた結果が、ノートの最後に書いた大文字だったのだ。
絵描きになった今も、その方向性が私を導いている。
対立の話に戻るが、20代の頃はどこをどう切っても対立だらけだった。会社の上司と対立し、上述した通り比較を通して様々な人と競争し、結果 対立をしていた。また外側の対立だけではなく、内面でも対立が絶えなかった。理想の自分と現状の自分との対立などを通して、自分にオッケーを出せずに苦しみもがく日々だった。
その基盤は、10代の頃、帰国子女の私にとって日本人とアメリカ人のアイデンティティの対立、そして家庭内の不和といった対立の中から芽生えていったものだと自覚している。
でも、こうも思う。対立だらけの日々のおかげで、自分にとって「調和」が大切なのだということを自覚できたことを。
どのようにして「対立から共存」を目指し、「調和」を実現していくのか、まだまだ道半ばだ。
今は、それを世界共通の言語だと認識している絵の力、そして、コミュニケーションよりもう一歩深く先をいく対話という方法で、探っている。と同時に、引き続き、自分の内面にある対立を少しずつ緩和すべく取り組んでいる。
方法はその都度変化していくのかもしれない。
でも方向性は、変わることはないだろう。
以上、ひとり言のような日記でした。
2020.08.18
Kayo Nomura